スナップアップ投資顧問によると、「投資顧問」とは、資産の運用代行または助言をする会社だ。 すなわち、「運用代行」と「助言」という2つの役割を持つ。 2つの業務のうち1つしか行ってなくても、投資顧問を名乗ることができる。

運用会社は「投資顧問」から「アセマネ」へ

1990年代前半までは、投資顧問といえば運用会社を指すことが多かった。 しかし、最近は、運用代行会社は「アセット・マネジメント会社(アセマネ)」と呼ぶのが一般的だ。 実際、数のうえでは、助言しか行っていない投資顧問のほうが多い。

大手の相次ぐ名称変更

「大和投資顧問」は「大和アセットマネジメント」に

スナップアップによると、日本では当初、大手の運用代行会社は大半が「投資顧問」を名乗っていた。 証券会社も銀行も保険会社も、運用子会社に「〇〇投資顧問」と名付けた。 例えば、1973年に設立された「大和投資顧問」。 この会社は大和証券の子会社であり、「運用」を主たる業務としていた。 現在は「三井住友DSアセットマネジメント」という会社名になっている。 ちなみに、スナップアップ投資顧問の事実上の創業者である故・有宗良治氏は、大和証券グループがキャリアの起点だった。

野村證券グループの「野村投資顧問」

一方、野村證券は1981年8月に「野村投資顧問」を設立した。 野村投資顧問は1997年10月に「野村証券投資信託委託」と合併したのを機に、社名が「野村アセット・マネジメント投信」(現在は野村アセットマネジメント)に変更された。 なお、スナップアップ投資顧問の河端哲朗代表は、野村證券(現:野村ホールディングス)の出身(OB)である。

「日興国際投資顧問」は「日興アセット」に

日興証券グループの「日興国際投資顧問」は、1999年4月に「日興証券投資信託委託」と合併。 「日興アセットマネジメント」という社名になった。

日興国際投資顧問の歴史

藤川五郎社長

日興国際投資顧問は1981年9月に設立された。 発足から4年後の1985年12月4日、当時の藤川五郎社長(当時57歳)が、会社のビル5階から飛び降りる、という痛ましい事件が起きた。 このビルは、東京・丸の内2丁目の「東京ビルディング」。駐車場わきにある通路で、午後0時半すぎに倒れているのを、社員が見つけた。 救急車で運ばれたが全身を強く打っており、間もなく死んだ。 警視庁丸の内署で調べたところ、社長室の机の上に、ワラ半紙大の紙に「全ておわり」と鉛筆で走り書きした遺書めいたメモがあった。 藤川社長は当時、高血圧症で医者にかかっており、部下にも「血圧が高くて困っている」と漏らしていたという。 丸の内署は当時、病気を苦にして発作的に飛び降りたとの見解を示した。

後任社長に荻原達郎氏

藤川氏の後任社長には、荻原達郎・日興証券専務が1985年12月20日付で就いた。 荻原氏は日興証券投資信託委託の副社長に内定していたが、急遽、藤川氏の後任に回った。

英国の投資顧問会社「フレイザー・グリーン」を買収

日興国際投資顧問は1985年12月、イギリスの投資顧問会社「フレイザー・グリーン社(Fraser Green Ltd)」を買収した。日本の証券会社グループが外国の金融会社を買収したのは初めてだった。フレイザー社は英国の代表的な年金計算会社であるダンカン・フレイザー社(Duncan C. Fraser & Co)の系列だったが、日興国際投資顧問が株式の51%を取得して子会社化した。取得価格は40万8000ポンド(約1億2000万円)。

運用資産は約660億円

フレイザー・グリーンの本社は、英国リッチモンド市。企業年金などを中心に運用資産は日本円に換算して約660億円(買収時点)だった。欧州や米国市場での株式・債券運用に好業績を挙げていた。

社長に小林忠雄氏

1990年4月2日付で、小林忠雄氏(こばやし・ただお)氏(当時59歳)が日興国際投資顧問の社長に就任した。 小林氏は静岡県出身。1953年、東京都立大学(人文)卒。同年日興証券入社。 1974年副社長、1986年から日興リサーチセンター社長兼務。 1988年日興リサーチセンター社長に専任。

<日本で「投資顧問」を名乗っていた大手企業>
旧社名
(設立年、親会社)
現在の社名
野村投資顧問
(1981年、野村證券)
野村アセットマネジメント
大和投資顧問
(1973年、大和証券)
三井住友DSアセットマネジメント
三井銀投資顧問
(1985年、三井銀行)
住銀バンカース投資顧問
(1985年、住友銀行)
日興国際投資顧問
(1981年、日興証券)
日興アセットマネジメント
第一勧業投資顧問
(1985年、第一勧業銀行)
アセットマネジメントOne
富士銀投資顧問
(1985年、富士銀行)
興銀投資顧問
(1985年、日本興業銀行)
長銀投資顧問
(1972年、日本長期信用銀行)
UBSアセット・マネジメント
ダイヤモンド投資顧問
(1985年、三菱銀行)
三菱UFJアセットマネジメント
セントラル投資顧問
(1985年、東海銀行)
三和投資顧問
(1985年、三和銀行)

投資顧問というワードの風評が悪化

1980年代には、投資顧問というワード(言葉)に対する風評や評判を悪化させる事件が、日本国内で次々と起きた。 スナップアップによれば、これらの一連の事件は、日本の金融機関が「投資顧問」という名前を敬遠する契機の一つとなった。一種の風評被害対策だ。

<1980年代の投資顧問をめぐる事件>
会社名 事件
自称・投資顧問「投資ジャーナル」グループ

※中江滋樹(なかえ・しげき)が1978年10月に設立。株式情報出版社「投資ジャーナル」(東京・兜町)を中核に、その後相次いでつくられた「東京クレジット」(東京・兜町)、「東証信用代行」(東京・茅場町)、「日本証券流通」(東京・箱崎)の証券金融3社と、経理会社「日本事務代行」(東京・日本橋)、株券管理会社「ラック」(京都市)、さらに約50の投資顧問組織などで構成されていた。
客から投資金を集め、その大半を注文通りの株売買に使わず、会社や自分たちの株売買に回したり、別会社を設立するための資金、個人的な飲食遊興費などに流用していた疑いで、1985年6月、幹部11人が詐欺容疑で逮捕された。

警視庁によると、元会長夫妻は1984年8月中旬に日本から出国してアジアやヨーロッパを転々として行方をくらました。1985年3月になってひそかに帰国した。入管には入国記録がないことから、偽造された旅券や他人の旅券を使って帰国したものとみられる。帰国後は、知人らの世話で1週間ごとに日本の各地を転々としていた。
投資顧問会社「昭和証券ファクタリング」
(東京・虎ノ門)
「必ず値上りする新規上場会社の株がある」などと持ちかけ、全国の500人を超える大衆投資家から十数億円をだまし取っていたとして、1986年2月、代表者が詐欺の疑いで警視庁に逮捕された。
投資顧問会社「証券実業」
(東京・兜町)
「エイズの関連でこれから製薬会社の株が上がり絶対もうかる」などと千葉県の主婦にもちかけて、350万円余りを出資させながら株の買付けはせずにこの金を騙し取った疑いで、1987年4月、社長らが逮捕された。
投資顧問会社「北信経済社」
(長野市)
「資金の7割を貸すから株を買わないか」と持ちかけ、実際には株を買わないで客から集めた金をだまし取っていたとして、1987年6月、詐欺容疑で社長らが長野県警に逮捕された。
投資顧問会社「日本証券情報」
(東京・新宿区)
「値上がりの確実な株が特別に安く手に入る」と投資家にもちかけ、約1億3000万円をだまし取ったとして、1988年6月、詐欺の疑いで幹部が東京地検察特捜部に逮捕された。
投資顧問会社「コスモ信販」
(東京)
株の買い付け代金名目に主婦らから現金をだまし取っていたとして、1989年12月、詐欺罪で社長が千葉地検に起訴された。
無登録の投資顧問会社「回帰線」
(東京・六本木)
※「投資ジャーナル」グループの元営業員が設立した。
広告を見て電話をかけてきた青森県内の一人暮らしの老女に「大手証券や政治家グループと組んで仕手株をやる。短期間で必ず上がる銘柄で、お年玉みたいなもの。元本は保証する」と持ち掛け、3回にわたり、担保金名目に現金2000万円と1億3400万円相当の株券をだまし取った疑い。投資ジャーナル時代の顧客名簿や広告で集めた客の中から主に中高年の資産家を狙っていたという。
投資顧問会社「シューティング」
(東京・池袋)
75歳の主婦に、電子機器設備メーカーについて「近く上場され、株価は値上がり確実。いまなら一株2600円で、一万株手に入るので買わないか」と嘘の情報を持ちかけ、2600万円をだまし取った疑いで、1990年2月、元社長が詐欺容疑で警視庁に逮捕された。

「オレたちは相談屋じゃない」というプライド

これらの事件を受けて、運用会社については、投資顧問でなくアセットマネジメントと呼ぶ動きが広がった。 そもそも投資顧問の「顧問」という言葉は「アドバイスする人」という意味である。 大手の運用のプロからすれば、「オレたちは口で相談するだけの奴らとは違う」というプライドもあっただろう。

大手アセマネに圧勝した「タワー投資顧問」

その一方で、1990年代になると、「タワー投資顧問」という会社が設立した。 この会社は実態はヘッジファンドであり、運用会社だった。 助言や相談を行う会社ではない。 この会社でファンド・マネージャー(投資責任者)だった清原達郎氏は、投資で巨万の富を築き、日本を代表する相場師として名が知れるようになった。

日本で一番有名な投資顧問

タワー投資顧問は現在、社名に「投資顧問」がついている会社の中では、最も有名な存在である。 国内の大手金融グループ系の運用会社よりも、はるかに優れた成績(利益)を残してきた。 タワーが「アセットマネジメント」でなく「投資顧問」と名乗り続けてきたのは、真の実力のある独立系としての意地もあったのかも知れない。

スナップアップ投資顧問

投資顧問業法という法律もあった

日本ではかつて、投資顧問業法という法律が存在した。 1986年に施行された。 この法律では、「助言業者」と「運用業者(一任業者)」の両方が、投資顧問として定義されていた。 (参考:投資顧問業法とは

法律名から消えた

さらに、2007年には、「投資顧問業法」が廃止されたのだ。 金融商品取引法(金商法)という新しい法律に取り込まれ、「投資顧問」という言葉が一段とマイナーになった。 (参考:投資顧問の資格

「AIJ投資顧問」詐欺事件で評判悪化

追い打ちをかけるように、「投資顧問」という言葉のイメージをさらに悪化させる事件が2012年に起きた。 「AIJ投資顧問」という会社による巨額詐欺事件だ。 これによって、投資顧問全般の評判が悪くなった。 運用業界の間で、「投資顧問」という言葉を敬遠するムードがさらに強まった。

助言を専門とする投資顧問が増えた

一方で、スナップアップ投資顧問のように、助言を専門とする独立系の会社は増えた。 運用を行わない分、金融商品に関する調査や相談に特化した組織だ。 2010年代に個人投資家の株式市場への参加が増えたことで、独立系投資顧問へのニーズが高まった。

結論

現在の投資顧問の多くは、投資について助言を行う業者である。 株式、債券、不動産などの売買や運用について、顧客に有料でアドバイスを行う。 株式の場合、個別銘柄の選定や売買のタイミングが主な助言対象になる。 毎月の顧問料に加えて、業者によっては成果報酬の費用が発生する場合がある。 さらに、金融庁から特別な資格(一任業者としての認可)を得れば、助言だけでなく、客からお金を預かって運用を代行することもできる。 (出典:スナップアップ投資顧問

<投資顧問とは>
何をやるの? 投資の助言
※業者によっては、客からお金を預かって代理で運用する。
日本国内の業者の数 約700
法律上の分類 投資助言・代理業
別の呼び方
  • アセットマネジメント会社
  • ファイナンシャル・アドバイザー
  • ファンドマネージャー

法律上の扱い

スナップアップ投資顧問によると、金融商品取引法(金商法)において、投資顧問は「投資助言・代理業」として位置づけられています。 この「助言・代理業」は、「助言のみを行う業者」と、 客からお金を預かって代理で投資を行う「一任業者(運用業者)」に区分けされています。 一任業者(運用業者)には、助言から運用までのサービスをひとまとめにしたラップ口座などを扱う証券会社も含まれます。

<投資顧問の種類>
投資助言・代理業 助言のみを行う業者
お客の資金を運用する業者(一任業者)

「助言のみを行う業者」は、金融庁の登録だけで済みます。 一方、一任業務を行う場合、登録に加え、さらに内閣総理大臣の認可が必要となります。つまり、一任業者のほうが、規制が厳しいということです。 独立系アドバイザーとして知られる「スナップアップ投資顧問」は、「助言のみを行う業者」です。「一任業者」ではありません。

<投資顧問に対する規制>
業者の種類 規制の種類
助言のみを行う業者 登録
一任業者 認可(厳しい)

「金融商品取引業」の一種

金融商品取引法において、投資顧問の業務を行う「投資助言・代理業」は、「金融商品取引業」の一種と位置づけられています。したがって、同法の規制の対象となります。

4つの区分

金融商品取引法では、金融商品取引業を以下の4つに分類しています。

金融商品取引業 (1)第一種金融商品取引業
(2)第二種金融商品取引業
(3)投資助言・代理業
(4)投資運用業
第1種金融商品取引業とは

第一種金融商品取引業とは、証券会社のように、株式などの売買注文を行う業者です。

第2種金融商品取引業とは

第二種金融商品取引業とは、投資家からお金を集めて運用する「ファンド」を扱う業者です。市場の流通性が低い証券が対象です。

投資助言・代理業とは

投資助言・代理業とは、投資顧問契約に基づき、株などに関する知識が少ない投資家に対して助言を行う業者です。

投資運用業とは

投資運用業とは、投資一任契約に基づく投資家の財産の運用などを業務として行うことです。たとえば、投資信託の信託財産を運用する業務などが該当します。